ままごと『日本の大人』
アイホールでは、年に一本、子ども向け演劇作品の上演企画を継続して実施しています。
本年度は、ままごと『日本の大人』を8月30日(金)〜8月31日(土)に上演する運びとなりました。
<子どもと大人がいっしょに観る演劇>は、ままごととしても初の試みです。
作・演出の柴幸男さんに、作品についてお話いただきました。
■作品製作のきっかけ
なぜ、今回子ども向けのお芝居をつくることになったかというと、あいちトリエンナーレから依頼があったからです。前回のトリエンナーレ開催時、子ども向けの美術展示がいくつかあって、子どもの入場者数が予想よりも多かったそうなんです。しかし、子どもを対象にした舞台作品がひとつもなかったということで、今回、「子どもと大人が一緒に楽しめるような演劇作品をつくってもらえないか」と、お話があったというわけです。実は僕らは『あゆみ』という作品で参加していたのですが、その関連ワークショップに参加してくれた男の子が、お母さんと一緒に観てくれました。彼は笑ってくれたりすごく反応してくれて…。僕にとってそれが一番印象に残ってまして、今回、あんなふうに子どもが大人と普通に混じって、分け隔てなく観ているという、そういう客席の空気が出来ないかなあと思って、作品の製作が始まりました。
■『日本の大人』というタイトル
僕が今までつくってきた『あゆみ』や『わが星』という作品は、人間の一生や星の一生など、何百年単位を描くつもりで書いていたんですけれども、最近、もう少し小さい範囲の些細な出来事を書きたいと思うようになりました。『あゆみ』や『わが星』というのは、お話自体はどこにでもあるようなスケッチを並べていって、あるひとつの風景を見せるという形でつくってきました。そうではなくて、お話自体がもう少し力を持っているような、ストーリーの度合いが大きいものを台本として書けないかということを、ここ最近、僕は願望として持っています。まずタイトルに「日本の」と付けてしまうことで、少し状況を狭くしました。しかも“今の日本”ということにどうしてもなると思いますし、それをこの物語の中に少しは反映させなければいけない、という縛りを自分に設けようと思い、『日本の大人』というタイトルにしました。
■ストーリーは…
小学二十六年生=三十二歳のおじさんが小学校に転校してくるというお話です。そのおじさんに小学生が出会って、どういうふうに対処するかが主軸なんですけども、かつてそのおじさんに出会った小学生の子たちが、二十年後、同じ三十二歳になったときの視点も入ってきます。彼らが、今、同窓会をやろうとしていて、そのおじさんをもう一度探すという二重のプロットでお話が進んでいく感じです。結局二十年後、主人公の男の子以外はみんな彼のことを忘れてしまっています。「大人にならなければいけなかった子ども」と「子どもでいたがる大人」が出会って、それぞれの真逆の価値観が少し変化し、揺らいで、また別れる、というような、そんなお話にしたいと思っています。
このおじさんは「何もしない時間を大事にしたい」という思想のもと、小学生で居続けるという(笑)、人の迷惑のことはあまり考えないキャラクターになっています。この“何もしない”というおじさんがヒーローになったらいいなと思っています。
そしてもうひとつ、このおじさんを小学生たちがどうするかという話なんですけど、このおじさんを大人にしてあげるのがクラスメイトとしての役割なのか、でもなぜそれを自分たちが解決しなきゃいけないんだという問題になるわけです。誰かが何かをやらなければいけないとは、わかってはいるんだけれども、なぜ他の人が無視している問題を私たちが解決しなきゃいけないんだ。そういう意識を何となく、今、僕は感じます。目先の数時間とか数年間のことに対しては、みんな割と必死になって考えるんですけども、五十年後、百年後のことは、別に私たちが解決しなくてもいいんではないか。私たちは見て見ぬフリをして素通りするのか、それともクラスメイトとして卒業させてあげるのか、彼に対して何か働きかけをするのかということを、主人公のオクダくんという男の子が悩む、という流れがあります。
■小学生を対象にするということ
今回、愛知県の小学校にワークショップに行って冒頭部分を観てもらったのと、小豆島では、町民演劇子どもの部の稽古場で五分ほどの予告編を上演しました。そのときの経験はすごく活きています。子どもたちの反応は、何より“早い”です。「今、面白いぞ」みたいな空気は一気に出来るし、「あれ、今そんなに面白くないぞ」という空気もすぐ出来る(笑)。本当にわかりやすくて、一瞬で掴むし、一瞬で飽きる。今まさに面白いこと、不思議なことが起こっているか、劇が出来ているかどうか、というのを瞬間瞬間でジャッジされている感じがあります。だから俳優さんたちも、ちょっとでも手を抜いたり、守りに入ったり、出し惜しみしたら、スッと引かれるなというのはすごく感じたと思います。その代わり、大人は一回心が離れると、あまり戻ってきてくれないんですけれど、子どもは面白い瞬間がちゃんとあれば、またすぐ戻ってきてくれる。そこはすごく反射神経がいいお客さんを相手にしている感じでしたね。ただ、子どもに合わせすぎると、大人は大人で「子ども向けか」となってしまうので、今、その微調整に悩みながらつくっています。
でも子どもたちが観ているのを、横で僕も見て、とても嬉しかったですね。演劇で自分が元々やろうとしていたこととか、やりたかったことを、彼らに観てもらうことでもう一度取り戻せたような感覚がありました。ことさら笑わせようとか泣かせようとか、そういうことを思って作品をつくってこなかったので、劇は劇としてあればいいし、それを観た人の心の中で何か反応があればいいなと思ってたんですけど、彼らを前にしてみると、単純にウケたいです(笑)。反応が欲しいと思ってしまうんです(笑)。観ているそばから驚かせたり、笑わせたり、音や空気での反応がもっともっと欲しいなと思います。今はそういう台本が自分に書けるかというのも挑戦なので、彼らが六〇分飽きないということを第一に考えてつくっています。
■演出家と劇作家
僕は今まで演出家として作品をつくっていた傾向があったと思っています。台本がないところから人を動かして、稽古場でこういうふうに重ねていったら面白いんじゃないか、というふうにつくっていました。ただ、このあと十年くらいは、演出家ではなく劇作家として生きていきたいと思っていて、今回はそちらのほうにシフトしています。
僕のひとつの目標は、「劇作家がつくる作品」にしたいということです。『あゆみ』や『わが星』というのは、演出家がつくった作品だと思っていて…。本当は演出家と劇作家が半分半分に溶けているのがいいんだとは思うんですけれども、演出家の力に頼っていくことで、戯曲単体がどんどん、上演するための材料にしかなっていかないような感覚を僕自身受けていました。『わが星』とか『あゆみ』というのは、台本をそのままやっても演劇にならないんですよね。劇作家が書いた戯曲は、例えば何十年経っても、別の地域の人が読んでも、声に出して読んで何となく動いてみたら、これはこういうふうに面白い劇なんだなと伝わるというところが、戯曲の力としてあると思うんです。それを書ける人が劇作家だと思うんですけれども、そういう戯曲を果たして自分が書けているのかという反省があります。アレンジしないと上演出来ません、というテキストの集合体にはしたくなくて、なので今すごく台本に悩んでいる段階です。
僕の中でひとつやりたいと思っていることは、「劇である」ということをちゃんと子どもに伝えたいということです。演劇ってこんなことが出来るんだ、こういうふうに何かが変化するんだ、という、「演劇を観た」という感触をちゃんと残してあげたい。それが僕の仕事なので、そこをもってきちんと彼らに相対したいというのが、今回の僕の目標です。
■質疑応答
Q.今回、演出的な仕掛けは?
A.俳優が全員大人なので、大人が子どもを演じるということです。オクダくんが大人になった二十年後=三十二歳になった視点を入れて、例えばランドセルを放り投げちゃえば、「もう大人です」というふうに演じられるなと。パッとシーンが変わっても、今この人は子どもなのか大人なのか、というのはわからない。小学生の時代と三十二歳の時代が、演じている最中に入れ替わるというような見せ方がうまく展開していけば、後半、子どもと大人が同時に重なっているシーンというのが生まれるんじゃないかと思っています。どちらにも見える…これがおそらく、「“未来の大人”と“昔の子ども”がいっしょに観る演劇」というタイトルを付けたことのひとつの答えになると思っています。大人は、「大人が回想している物語」として見るかもしれないし、子どもは「小学生が二十年後の未来を見通す物語」として見るかもしれない。だから同じものを見ているんだけれども、大人は懐かしんで見ているし、子どもはこれからの未来を見ているのかもしれないし、過去と未来、同時に見ているみたいな状況にお客さんがなったらいいなと考えています。
Q.小学生のオクダくんが三十二歳になったら、クマノさん(おじさん)は?
A.僕もこれは今悩んでいまして…おじさん=クマノさんを、少しファンタジーといいますか、現実と違う要素にしたいと思っています。なので、彼もまだ三十二歳のまま、小学二十六年生のまま、時間が止まって存在しているというふうにしたいです。ただ、大人には見えないのかもしれないですよね。何とか五十二歳になっていないファンタジーな存在として(笑)、クマノさんを成立させたいなと思っています。
Q.クマノさんというのは、作者自身?
A.僕ですね(笑)。クマノさんは、「“何もしない”がしたいんだ」「空の色を毎日ぼんやり眺めて生きていきたいんだ」ということを力強く言う(笑)。それを小学生に「いや、無理でしょ」ってつっこまれる、というシーンがあるんですけど、見てて「そうだよなあ」と、グッとくるんです。“大人にならなきゃいけない”というのもひとつの思い込みだし、それぞれがそれぞれの方法で大人になるしかないとは思っています。その僕の中の葛藤が、「それじゃダメでしょ」という小学生と、「いや、誰も心の自由は奪えない」と言っているおっさんの、ふたりのキャラクターになっています。
Q.「劇作家として生きていきたい」とは?
A.僕は一度、劇作家を目指して、でも諦めて演出家として作品をつくるほうへ方向転換したので、演出先行でうまくいったからそれでずっとやっていけばいいじゃん、と思えなかったんですよね。やっぱり、同じことをしていたら、結局行き詰ってくるんです。最近、いろんな劇を観てても、「これは演出家によってつくられてるな」とか「戯曲に劇が存在していないな」と感じることがあります。それを演出が面白くしたり新しくしたりしていてグッとくるんだけども、それは、演出によってかけられた「魔法」なんです。その魔法自体が「劇」だと思うんですけど、戯曲には「劇」がない、と思ったときに、ふっと興味がなくなる。今、目の前の作品をこなしていくだけだと、どうしても演出家の発想になるんですね。演出家は十年後の演出なんてわからないし考えないと思うんですけど、劇作家はもっと長いスパンで考えざるを得ない仕事だと思うんです。もしかしたら、上演回数は少なくても、三年後にものすごく良い形で上演されるかも知れないし、誰かが戯曲を掘り起こしてくれるかもしれない。そういう時間のかけ方の演劇が出来るということで、戯曲という仕事が注目される時代が来るはずだと信じ、そのために今から準備をしよう、そういう存在になろう、と思っています。
Q.今後、書いていきたいテーマは?
A. “人間”が描かれていない戯曲は駄目なんだな、ということは感じています。僕は、テキストの段階では“人間”は出てこなくてもいいと思っていたんです。例えば『あゆみ』では、「歩みを続けていく」ということ自体で人間性がぐっと高まるし、『わが星』では時報とラップが繋がって、それを役者が八〇分間やり抜くというところに人間としての熱がこもるので、戯曲自体で“人間”を描ききっていなくても劇として成立していたような気がするんです。でも、それだと戯曲を読んだときに、スーッと流れていってしまうと思ったんです。僕は“時間”が好きで、いろんな時間を書いてきたんですけど、そこにもうひとつ、“人”という存在が必ず入っていないと駄目だと思っています。シーンを繋ぎ合わせたり、コラージュをつくったりするんじゃなくて、ひとつの場で、どういうふうに人が動いて、人の反射が起こるのか、ということを描いたものが戯曲になると思います。だから、そこを突き詰めていきたい。今までいろいろ時間軸が飛ぶようなお話を書いてきた逆で、特に「ひとつの場所」、「ひとつの時間」を大事にしたい。そうなると、実は平田オリザの戯曲になるんですけどね(笑)。
(2013年7月 大阪市内にて)
【AI・HALL自主企画】
あいちトリエンナーレ2013世界初演/委嘱作品
ままごと
『日本の大人』
作・演出:柴幸男
出演:秋葉由麻、大石将弘(ままごと)、高田博臣(劇団うりんこ)、
高野由紀子(演劇関係いすと校舎)
2013年8月30日(金)15:00 / 19:30
8月31日(土)11:00 / 15:00
公演の詳細は、こちらをご覧下さい。 → こちら |