出席者: 北村想
中村賢司(空の驛舎)
林慎一郎(極東退屈道場)
司 会: 小堀純


小堀: 想さん。第17回鶴屋南北戯曲賞おめでとうございます。久々のご受賞ですね。
北村: 青天の霹靂でしたね。ノミネートされたときは、『グッドバイ』の公演中だったので、関係者の皆さんの励みにはなるだろうと思っていました。鶴屋南北戯曲賞は“功労賞”だと思っていたので…。
小堀: この賞は、在京のハイキャリアの演劇記者が投票して決まるものです。つまり、その道のプロが今年の芝居のなかで一番面白かったものに与える賞ということです。東京の記者なので、関西の公演は対象にならないんですけどね。改めて、還暦を過ぎての受賞はいかがですか?
北村: 還暦を過ぎても、賞というものをいただけるんだと思いました。だからこそ、新人も中堅もベテランも、劇作家はとにかく書き続けてもらいたいですね。威張っていってるんじゃナイですよ。
小堀: 昨年末に中村賢司くんは『追伸』で第20回OMS戯曲賞大賞を、林慎一郎くんは『タイムズ』で第20回OMS戯曲賞特別賞を受賞されました。賢司くん、最終候補に残った回数は10回?
中村: 10回です(笑)
北村: スタンプが貯まったんだな(笑)
小堀: 佳作を受賞した『てのひらのさかな』は何年前だっけ?
中村: 10年前です。第10回のときです。
小堀: 今年でOMS戯曲賞は第20回。賢司くん、改めてどんな感じですか。
中村: 13年前に初めて最終候補に残って、13年間で10回ノミネートされました。初めて残ったときはすごく嬉しかったんですけど、候補に残る機会が続くとだんだんと喜びやトキメキが薄れ、まわりの反応も薄れ…。ただ、選外のときは悔しさは増しましたし、『てのひらのさかな』が立ちはだかり、これを上回らないといけないというプレッシャーも感じました。でも、改めて振り返ると、最終選考に残ることで、公開選評会で委員のお話を聞けたり、そのあとの交流会でお話しさせていただくことで、すごく勉強になりましたね。だから、大げさではなく、OMS戯曲賞に育てられたと思っています。
小堀: 林くんは、大賞と特別賞という、OMS戯曲賞20年の歴史の中で、松田正隆、ごまのはえに次いでの快挙なわけです。前回の受賞と比べて、今回はどうですか?
林: 『サブウェイ』は分岐点になった作品です。「こう書かなければいけないのではないか」と捕われていたものを捨てて、ある意味、戯曲賞をあきらめて書いたので、その作品を読んでもらって評価いただけたことで、すごく背中を押されました。そのおかげで、自分のなかでのいろんな制約が取れて、思い切って書けたのが『タイムズ』です。自分が演出家として、演劇作品として立ち上げられるかどうかも考えずに書けた作品です。それが今回、またこうやって読んでもらえて評価をしていただけたことが、すごく嬉しいですね。
小堀: 想さんは、OMS戯曲賞の第1回から第10回まで、選考委員をされていました。賢司くんはそのときに戯曲を読んでもらったと思うんだけど、想さんに何を言われたかは覚えている?
中村: 『てのひらのさかな』はホラーだと言われ、その前の『変身リベンジャーとスーパーフライトマン』は“環境演劇”だと言われました。松田正隆さんは、想さんが話されたことに触発されたそうで、あとで中村賢司作品の読み方を想さんに教えてもらったとおっしゃっていましたね。
小堀: OMS戯曲賞は、扇町ミュージアムスクエア(以下OMS)10周年記念事業のひとつとして始まったわけです。OMS初代プロデューサーの津村卓くん―アイホール初代プロデューサーでもあるんだけど―、彼と私で、関西にはたくさんの若い才能がいるのにちゃんと評価されていない、自分たちの目の前にいるすごい才能が評価される環境をつくろうと話したことが、戯曲賞創設のきっかけです。劇場名がつく戯曲賞は珍しいから、賞があることで劇場自体が存続していくだろうという思惑もあった。戯曲賞をつくって、関西の才能が評価されて、それが全国区や世界的になっていけば、OMSもさらに発展していくんじゃないか、ひいては関西小劇場演劇界が活性化していくのではないかと考えたわけ。結局、OMSは18年間で閉館したけど、そのあとも戯曲賞は続いて今年で20年になる。「存在が意識を決定していく」というけれど、賞は貰えるなら貰っておいたほうがいい。それに、OMS戯曲賞は公募。だから応募し続けてくれた賢司くんのその勇気には改めて敬意を表するよ。
中村: OMS戯曲賞は、憧れでしたから。
小堀: 鶴屋南北戯曲賞や岸田國士戯曲賞は、公募じゃないしね。特に岸田戯曲賞は、今でこそ、全国からアンケートをとって、関係者が推薦した作品が選考の対象になり、下読みを経て最終候補に残っていくけど、想さんが岸田戯曲賞を受賞されたころは、本として出版していないと対象にならなかったよね。
北村: 活字になっていないとね。
小堀: だから、『寿歌』を掲載した『不・思・議・想・時・記』を出版したときに、白水社の担当編集者から、「小堀さん、これで北村さんの『寿歌』は、岸田戯曲賞の選考対象になりますね」って言われて、そのときは、もう賞を貰った気でいたからな(笑)

■伊丹想流私塾との出会い

小堀: 賢司くんも林くんも二人とも伊丹想流私塾出身だよね。何期だっけ?
中村: 私が第3期で、
林: 僕が第8期です。
小堀: 想流私塾にはどうして入ったのかを、二人にそれぞれ聞きたいんだけど。
中村: 「空の驛舎」の前にやっていた劇団では、アラバールやジュネといった古典を上演していました。でも、そのうち、観客も減り、劇団員も減り、これから演劇活動を続けるにはオリジナルの台本を書くしかないと思い、手法もわからぬまま書いたんです。けれど、明らかにモノになっていないレベルだと自分でもわかって…。それで、藁にもすがる思いで、想流私塾の門を叩きました。第1期のときは、断られたんですけどね(笑)
北村: 書類審査で落としたなあ。
小堀: それはどうして?
北村: 人相が悪かったからじゃないかな(笑)
中村: それで、もう一度応募して、第3期で入塾し、そこから本格的に書き始めました。
小堀: 想流私塾に入塾してみて、何に一番刺激を受けた?
中村: 想さんのおっしゃる、「テーマもストーリーも要らない」、「インスピレーションを大事にしろ」ということ。あと、師範に太陽族の岩崎正裕さんと桃園会の深津篤史さんがいらっしゃって、塾が終わったら、毎回呑みに連れて行ってくれたんですよ。そこで、劇作家がどういうふうに生活をしていて、何を考えて、何に興味を持っているのか、その人の作品ではなく、劇作家の身体に全身で触れることができました。想さんも、塾ではご自身が興味をもっていらっしゃる本とか映画とか題材の話をしてくださるけど、そういった話は塾の門を叩かないと得られないし、それが大きな刺激となりました。
小堀: 林くんのときは、師範は誰だったの?
林: 僕のときは、賢司さんと清流劇場の田中孝弥さんです。
小堀: えっ、じゃあ賢司くんの教えた人が先に大賞をとっちゃったの!?
中村: そうなんですよ、もうゾッとする(笑)
小堀: 林くんは、どういう動機で想流私塾に?
林: まず、劇場と出会ったことがきっかけです。当時、僕がやっていた劇団は、そのへんの公民館を借りて公演をしていまして、次の会場を探すのも、電話帳の「あ」から順番に引いて電話していたんです。で、アイホールが空いていたので借りたんですけど、僕ら惨憺たる使い方をしまして…。まず、怒鳴られるところからアイホールとの出会いが始まるんです(笑)
小堀: ああ。今の館長にね。
林: まあ(笑)。それに当時は、劇作家をしようとか、台本を書こうという意思で活動していたわけではなく、劇団のなかで役割として順番がまわってきたから書いていたんです。ただ、どうもうまく書けないと自分でも気づいていて。そのことを今の館長に相談したら、想流私塾を勧められました。ただ、僕、二の足を踏んでしまったんですよね。当時は塾長のお芝居すら拝見したことがなかったので、「書き方を教えられる」のではないか、とすごく気後れしていました。それで、翌年の募集までの1年間、塾長の本をたくさん読みました。読んでみて、「これだけ幅が広かったら、いけるかも」って思ったんです。
小堀: それは、北村想という作家に対して?
林: はい。演劇を使った切り口をこれだけ持っている作家なら、僕の気後れしているこの気持ちも何とかなるかもしれないと思い応募しました。入塾が決まり、開講する前に、ちょうどプロジェクト・ナビの解散公演『青いインクとトランクと』があり、初めて塾長の芝居を生で観劇して、「ここで勉強しよう」と確信したのを覚えています。
小堀: 賢司くんは、想さんのことを知っていたの?
中村: OMSで『ロールプレイン・ザ・バグ』(1987年)を観てから、プロジェクト・ナビの大阪公演は全部観ていますね。レジェンドです。大ファンですね。
小堀: 林くんに聞くけど、中村師範の教えっぷりはどうでした?
林: 僕のときも、終わってから呑みにいく機会があって、そこまで含めて塾のような感じでした。あと、塾では、師範の田中さんと賢司さんとに別々にコメントをいただくのですが、二人とも気になるところが違うんです。結局、悪いところとか直せばいいところは、煎じ詰めると二人とも同じなのですが、切り口は違っている。二人の言葉をかみ砕いていく作業は苦しかったですが、それがすごく面白かったですね。
北村: 賢司くんのときも、師範の深津と岩崎が全く違っていたらしいと聞いたけど。刑事の取り調べのようだったとか。
中村: そうですね(笑)。岩崎さんは「これ、いいね」と褒めながら。深津さんは基本的には厳しくて、「こんなの読めない」っておっしゃるぐらい冷たいときもあったけど、同じぐらい演劇に対して熱かった。情も厚い人なので、喰らいついていくことで、すごく可愛がってもらいました。岩崎さんと深津さんも、アプローチの仕方や褒めるところが違っていて、それぞれの作風を体現するような切り口で攻めていただける。お二人のコメントをそれぞれで聞けることも有り難いシステムだと思いました。だから、私も執筆するにあたっては、今回は岩崎さんの切り口で書こうとか、深津さんの切り口で書こうとかを考えながら、自分のオリジナリティを模索し、それを浮かび上がらせる体験ができました。

■関西を拠点に活動すること
〜売れるより作品を極める〜

小堀: 林くんは北海道から大学で京都に来たのち関西在住に、賢司くんはずっと大阪で活動しています。想さんは、滋賀県出身で高校卒業後に名古屋に出て、今、また地元に戻っていますよね。三人に聞きたいんですが、関西という地域で、劇作家や劇団をやっていくことについて、どう考えているのでしょうか。具体的にいえば、東京に行こうと思わなかったのかな?
林: 僕はそもそも、北海道から大学目指すときに、わざわざ東京を飛び越える選択をしているので、そういう意味でも首都を敬遠して動いていた節があります。書くということを考えても、東京に住んでいなくてもいいと思っているので、東京に拠点を移して活動することは考えたことがなかったですね。
小堀: それは賢司くんも?
中村: そうですね。どう売れていくかより、どれだけ自分の作品を深めていくかに興味があって。
小堀: 作家としてのベクトルのほうが大きいんだな。
中村: もちろん、お客様はいっぱい来て欲しいですよ。ただ、自分の劇世界はまだまだ未完成で、まだまだ浅いと思っているので、そういう作業をしていると東京に出ようとはならなかったですね。
小堀: 想さん、今更だけど、どうして名古屋だったんですか?
北村: ひとつは、名古屋の大学に通っている友人がいたから。本音をいうと、東京って、嘘ばっかりという印象を持っていて、そんなところで芝居したくないって思った。まあ、東京で賞をいただいて、そんなこと言うのもどうかと思うんだけど(笑)。ただ、関西のほうが結びつきが嘘じゃないと思う。作家の結びつきとか、評論家とか新聞記者とかの結びつきも。名古屋も「劇王」を始めて、その結びつきに嘘がない感じがしている。東京は、横の繋がりにしても建前が多くて、そういう結びつきが薄く感じる。でもまあ、それはしょうがないんだけどね。東京で残っていこうと思うと、みんながライバルだしね。東京のマスコミの持ち上げては棄てるというやり方も嫌だったな。いまは、ずいぶんいいふうに変わった気がするけどね。まあ、当時の名古屋は、全く持ち上げなかったけどね(笑)。東京で公演をはじめたのは、名古屋ではうちが初めてなんだけど、そういう評価すらしてくれなかったからね。
小堀: 本当に。孤立無援、孤軍奮闘(笑)
北村: 逆に、好きなことができたけど。だから、ずっと名古屋で活動していました。
小堀: 名古屋は、東京や大阪や京都から適度に距離があって、古い街でしょ。だから文化があるわけですよ。芝居に対しても的確なことを言ってくれる目利きの人もいて、俺もすごく勉強になったし、それなりの緊張感があった。だから、大阪に来たとき、「えっ、こんなに緩いのか」って思った。いい意味でも悪い意味でも緩くて、俺はその緩さがすぐ身にあっちゃったから、今やプロフィールに大阪生まれって書かれちゃうぐらいなんだけど(笑)。林くんの場合、北海道から来てどうだった?
林: 言葉の問題で苦しみました。ものすごく違和感があったんです。関西弁を話せるけど、その言葉を僕は使えないと。この場所にいて、会話する言葉、人が語る言葉とは何だろう、どう喋っているんだろうと悩まされました。もしかしたら、その経験が今も書き続けている理由のひとつかもしれないです。僕、戯曲を関西弁では書かないんです。でも、関西に来て感じたエネルギーみたいなものが、それ以降、言葉を書いたり会話を書いたりする、一つの動機にもなっていると思いますし、僕が関西でお芝居をつくる面白さのひとつになっていると思います。
小堀: 賢司くんはどうなの?
中村: 演劇をはじめたころ、OMSで上演される東京の劇団も面白かったのですが、関西の劇団も面白かったんです。南河内万歳一座とか劇団☆新感線とか劇団そとばこまちとか。あと、犬の事ム所の大竹野正典さんとクロムモリブデンの青木秀樹さんという二大劇作家もすごいと思いましたし。
小堀: まったく作風が違うけどな(笑)
中村: この二劇団は毎回欠かさず観ていました。しばらくすると、太陽族の岩崎正裕さん、桃園会の深津篤史さん、鈴江俊郎さん、松田正隆さん、MONOの土田英生さんという“五本山”が関西にはできましてね、
北村: 五本山(笑)
中村: 五人とも作風がバラバラでしたけど、面白かったですし、すごく刺激を受けました。
小堀: 大竹野正典は亡くなったけど、大竹野くんのようなタイプは東京には絶対いないよね。会社の作業服で現れるし、眼つきが鋭い。でも、ものすごい知識量と読み解く力がある。そして山登りに傾倒して、『山の声』という名作を書く。俺も、編集者として、なぜ東京に来ないのかとよく聞かれました。やっぱり出版社は東京中心だからね。でも、大阪に来て、いろんな面白い才能にいっぱい出会う。そうすると、やっぱり編集者は才能の近くにいたいと思うわけですよ。特に劇作家の場合は、その人の芝居を観ないといけないから、芝居をやっているところにいないと、駄目だからね。

第2部につづく →