アイホール・アーカイブス
燐光群『シアトルのフクシマ・サケ(仮)』 坂手洋二インタビュー
AI・HALL共催公演として2021年12月11日(土)~13日(月)に、燐光群『シアトルのフクシマ・サケ(仮)』を上演します。福島で被災し、シアトルでの酒造りに憧れを抱く、休業中の酒蔵一家の奮闘を描いた物語です。
燐光群主宰であり、作・演出の坂手洋二さんに、作品の見どころや創作の背景についてなどお話しいただきました。
■福島との繋がりと創作のきっかけ
これまで福島について関わりがある劇は何本か書いてきましたが、僕自身、元々接点があったわけではなく、震災直後には、「福島にはいろんな人が支援に行ってるし、僕は沖縄へ支援に行くことを継続したいから、そんなに行かなくてもいいんじゃないの」という気持ちもあったんですけど、震災後3年くらい経ってからいろんな出会いがあって、福島に行くようになりました。2015年には原発から22キロくらいの場所にある「高野病院」を舞台に、『バートルビーズ』という劇を作りました。もっとも、震災の年には『たった一人の戦争』という劇を書いています。これは核の廃棄物をどこに捨てるかという話で、部分的に福島のことも出てきます。
2012年3月11日にNYの演劇人たちが、被災地の演劇人や劇場に向けて寄付を募る目的で「震災SHINSAI:Theatres for Japan」という東日本大震災に絡んだ新作短編戯曲の公開ドラマリーディングの企画をやってくださいまして、当時、僕が会長を務めていた劇作家協会が日本側の窓口だったので、NYと繋いだものをやったりしました。僕が書いた短編も向こうで上演されて、8月には日本でも行いました。
そんな中、知り合いから「福島で被災した酒蔵一家がシアトルに移住して日本酒を作ろうとしている」という話を聞きました。本来は僕自身がシアトルに取材に行こうと思ったのですけれど、コロナ禍で渡米が難しくなったことから、そのご家族に対して一種の憧れの念を持っている、異なる事情で蔵を閉じてしまった別な酒蔵の人たちを主人公にする話になっています。
なので、元々描きたかったシアトルのことをいろんな事情で書けなかった、という意味でタイトルに(仮)がついています。
■作品の背景(原発と福島での酒造り)
ある酒蔵一家のシアトル移住のことを皆が知るようになった2013~14年は、ちょうど原発の廃炉作業の一つとして、原子炉の冷却時に出た汚染水を溜めておくための非常に大きなタンクが作られていたんですが、その方針が変わった時期です。このタンクは溶接しないで組み合わせる方法のもので耐久年数が5年しかない。当初、国や東電は3~4年で汚染水を海に捨てられると想定していたけれど、それは漁民の反発もあって不可能で、溜めておく期間が長期化するため、溶接したタンクに換える必要が出てきた。このタンク切り換え作業が2013年に始まりました。酒蔵にはいろんな樽とかタンクがありますが、この劇では、そのお酒のためのタンクと、原発にある汚染水のタンクを、あえて重ねてみました。
セットには、大きなタンクが2つドンドンと置いてあります。アイホールの空間は通常の小劇場より大きいので、その空間をフルに使った芝居をちゃんと見せたいなといつも考えていて、今回も大きな2つの樽が出てくる、この広さがなければ出来ない公演になっています。
また、2013年にはオリンピック招致の際に「アンダーコントロール」という言葉が出て、収束してないのに収束したという言葉が流布されて、現場の人たちは面食らったわけです。僕も福島で原発作業員だった人にインタビューさせてもらいましたが、原発労働者たちは今でもかなり危険で理不尽な状況の中で働いています。そういうインタビューから出てきた話も組み込んでいますが、ただ酒蔵も原発作業員の人も素性を明かせないので、フィクションだから出来る形で発言内容をいろいろ取り入れています。
日本政府が原発の再起動のGOサインを出したのが2012年で、一度原発は全部止まっているんだけど、国としては再開の方針を決めてしまったという、そういう時です。勝手にどんどん決められていくわけですが、それは住んでる人たちは受け止めようがない現実です。「アンダーコントロール」のことも今更なのでそんなに深くは描いてないですが、その時感じていた人たちの空気を描いています。
■ストーリーについて
登場する一つの酒蔵一家は、海沿いのエリア「浜通り」(南相馬~いわき)にありました。その酒蔵は津波で流されてしまって、蔵元(長男)とその双子の娘のうちの一人が津波で亡くなっています。内陸エリアの「中通り」の酒蔵に嫁いだ長女一家を頼って、隠居した父と次男、亡くなった長男の妻と生き残ったもう一人の双子の娘が居候している。原発労働者には地元の人がいっぱい居るんですが、その次男も事故の前から働いていて、実際、自分の蔵はこれからどうなるんだと煩悶します。避難した中通りの酒蔵も、風評被害やいろんな事情で酒蔵を閉じていて、そこで空っぽになってるタンクの中でぼんやりしている時に、自分が原発で働いていた時のイメージが重なる。そういった「継続することを諦めてしまった家族たち」の話を描いていくことが物語の核になっています。
あとは、シアトルで日本酒を作ることへの憧れというのがあって、むしろ日本にいた方が酒を造るのに、いろいろとややこしい事情がある。中通りの蔵に移り、がらんとしたその休業中の蔵の中で、原発での労働のことと今これから酒を造ることの矛盾の中で苦しむんだけど、でも「シアトルに行けたらなあ」みたいな憧れはどこか残っていて、シアトルのことを想うわけです。
福島は東北でも一番の蔵の数ですし、お酒に対してすごくプライドを持っています。そういう人たちのことを描きながら、「今、現在」というのがどういう時間なのかを描いていくというストーリーで、ラストはお酒を作ることを諦めていた人たちが、小さい規模ながらでもまた造り出すことを考え始めてる…というふうに終わります。休業している蔵の二つの家族。僕の作品では珍しくファミリードラマにもなっています。
それに関わってくるのがもう一つ、『黒塚』などの能にもなっていますが鬼婆伝説です。隣の村が鬼婆伝説をアピールして町おこしをしているのを羨ましく思っている中通りの観光課の方々がいて、たまたま劇中登場するその酒蔵の名前が“鬼蔵”だったので「鬼婆伝説がこちらにもあるようにして町おこしをしよう」と鬼伝説も関わってきます。
こうして、二つの休業中の酒蔵家族を中心に、福島の現実やシアトルへの憧れ、鬼婆伝説のことが絡んでくる、という物語になっています。
■取材と通して知った新たな福島・日本酒の魅力
僕は正直に言うと日本酒党ではなかったんだけれど、今回、日本酒の魅力というものを再発見しました。あとは、福島の自然とかいろんなものとの出会いの話ですね。僕らはどうしても原発事故に関心があるので、海沿いの「浜通り」には注目がいくのだけれど、内陸の「中通り」っていう概念が、あんまりピンときてなかったんです。「中通り」はものすごく広い盆地で、両側が山なんです。『みちのくひとり旅』という唄や松尾芭蕉は、こういうところをずっとまっすぐ行ったのか。山と山の間に囲まれた平野の広大さ、海が繋がってない盆地をずっと歩いていくことは、岡山出身の僕には閉塞感があってちょっと怖い感じがするんですよね。そこに鬼婆伝説が出てくることも納得できるという。でも地元の人に話を聞くと、その平べったい盆地は、大昔、海だったと言うんです。そうした「中通り」という場所の面白さというのを今回初めて感じまして、その場所の魅力も書いています。
■福島の現実を描くということ
浜通り、中通り、更に山の向こうに会津があって、福島というのはとても広い。中通りも部分的には放射線被害はあるんだけど、浜通りとは感覚が微妙にズレてる。津波の被害にあった太平洋側の東北地方の人たちは、やっぱり津波のことばかりになっちゃう。僕は、東北の演劇関係者たちが集まるイベントに何度か出てますが、県ごとに温度差が激しい。青森は核貯蔵庫がある影響で、若干放射能のことを背負ってきているので違うんだけど、ほとんどの東北の人たちは、福島の人たちに比べると原発の問題があまりピンときてないという感覚があります。そういうことで福島の人たちは「自分たちが孤立してる」っていう思いをすごく持っている感じもある。実際、他のところに移住してもいろんな差別を受ける、ということもよく言われます。だから今回、原発近くの立入禁止地域で、土地の遺産相続をする場合の税金の問題などいろんなことを調べたりしました。住んでいる人にとってはまだ解決されていないし、その被害がどのような被害なのかということが一口に言えない、多層に渡っている、そういう直面している現実を架空の酒蔵一家中心に描きます。
ストレートプレイとして家族のリアルなやり取りもあるんだけれども、原発労働者であり酒蔵を継ぐかどうかを考えている男がいる「タンクの中」というイメージの世界になったり、一種のアンダーグラウンド的な演出も出てきて、そこに鬼の伝説が混ざるという形です。「僕たちが失ったものをもう一度取り戻せるんだろうか」と登場人物たちが煩悶する姿を、ネガティブではない形で描いています。雰囲気としてはふっと音もなく笑うような、ちょっとしたコメディーとして進んでいる部分もあるように思っています。
2021年11月 オンライン上にて