【AI・HALL共催公演】
ハイバイ『ポンポン お前の自意識に小刻みに振りたくなるんだ ポンポン』
アイホール共催公演として、8月7日(火)に、ハイバイ『ポンポン お前の自意識に小刻みに振りたくなるんだ ポンポン』を上演します。
今回で三演目となる本作について、劇作家・演出家・俳優の岩井秀人さんにお話を伺いました。
■三度目の再演について
ハイバイは結成10年目なんですけど、いちばん再演回数が多いのが、旗揚げ作品の『ヒッキー・カンクーントルネード』で7回、この作品と『て』が3回、『投げられやすい石』が2回ですかね。基本的にハイバイは、自分たちの実感として反応の良かったものは、どんどん再演して、レパートリーを増やすこととブラッシュアップすることをやっています。
僕は、いわゆる“新作主義”がちょっと疑問で、その作家の次の作品が面白いかどうかって、本当にわからないと思っているんですよ。だから、例えば5本ぐらいすげー面白いものができたら、もう創らなくていいんじゃないかなと思っているんです。そのほうが有意義な気がして。もちろん、新作創りたい人に対してやめろとは思わないですし、僕は新作を書きたくないので、その方が願ったり叶ったりなんですけど。
例えば、『ヒッキー・カンクーントルネード』は旗揚げで動員160人だったんですね。ただ、僕としては相当面白いと思っていて、まだ見ていない人が1億2千万人以上もいると思ったら(笑)、新しい作品創って200人ぐらいの人に見てもらうよりは、面白いと言ってもらえる可能性があるところに、どんどん売って出ていった方がやりたいことに忠実な気がしたんです。あと、新作の場合、その作品がどういうものかという結論が出るのが、千秋楽から公演終了後3ヵ月後ぐらいなんですよね。翻って再演は、この作品が受け取られることはわかった、じゃあ、さらに深く強く受け取られるためにはどうすればいいのか、から始められるのが強いと思う。俳優も含め、その体感からスタートできるので、それがものすごく再演のアドバンテージだと思っています。
今回の作品は、「ファミコンを持つ者と持たざる者の話」と、「親たちの昔の夢がついえてしまう話」と、「地元の劇団の話」の3つが中心です。
■作品について
「ファミコンを持つ者と持たざる者の話」では、小学生って、まだ世界に対して希望をいっぱい持っている状態なのに、既にヒエラルキーや権力争いのようなことが始まっていることを描けたらと思っています。僕自身がまさにファミコンを持たざる子どもで、カセットを単体で買って、本体を持っている友達の家にゲームをしに行ってたんです(笑)。でもそうすると完全に向こうに主導権がある。だからまず、持ち主がゲームをやっているのを横で見ながら、やりたい空気を出しつつも相手のプレイを適度に誉めつつ、やらせてもらえる時間まで待たなくちゃいけない(笑)。そういうことって、大人になってもあると思うんです。例えば、相手がやってるゲームに関しても、自分の方が実は知っているんだけど、その知識を明らかにすると相手の機嫌を損ねてしまうので、抑えなくちゃいけないみたいな。そういったことを書きたいなと思っています。あと、見た目は完全なおじさんが、真剣に小学生を演じるというのが僕は好きで、ときどき小学生よりも子どもに見える瞬間があって面白い。大人が見ても等身大の世知辛さと、小学生にもある世知辛さを両方出していけるかなと思っています。
次が、「その持たざる子の親や家族の話」。その子のお母さんは、裕福な家庭に育ち、結婚して主婦をやっているんですけど、実は、ジャーナリストへの夢を捨てたのです。ただ、子どもがある程度落ち着いたので、昔からの夢を叶えたいと思って、演劇を取材するために近所の劇団を訪れるんですね。文化や芸術に触れることが人の心を豊かにすると信じている母は、取材先の劇団にコミュニケーションのかたちを見出そうとするのですが、もろくも崩れ去るという話です。
そして、「地元の劇団の話」。コミュニケーションについてすごく考えている劇団主宰がいるんですが、他者との関係性のあり方が、極めて独善的なんです。きっと近い将来そういうことが起こる気がするんですね。これから演劇は、学校教育にもゆっくりと入っていくと思うんですけど、その来たるべき未来について、変な大人が警鐘を鳴らす、みたいな感じにしたいなと思ってます。この部分は、今回新しく書き換えます。今までは、劇中劇で『西遊記』や『火の鳥』といったメジャーな演目を、何か変な状態で練習している設定だったんですけど、それは違うなとずっと悩んでいて。ファミコンの時代に、劇団でコミュニケーションというのは変ですけど、そこは別にいいやと思い、劇団の部分を大幅に書き直します。
『ポンポン』は、再演してきたなかでも、わかりやすい作品です。たぶん、誰もが経験したことを描いているからだと思います。ファミコンに限らず、権力に繋がるものを持ってる人と持ってない人との気の使い方とか、押さえつけてる側とつけられてる側のやりとりは、年齢問わず起こっていますしね。僕も含めて大抵の人は、押さえつけられている側なので、共有しやすいのかなと思います。
■Q&A
Q. 具体的にどう変えようと考えていますか?
現実にある日常の些細なことを、ロールプレイングにしようと思ってます。例えば、「コンビニの店員とお客」で、どうすればお互いが気持ちよく売り買いを遂行できるか、お釣りの渡し方だって、お札と小銭とレシートをどの順で渡すのが客として都合がいいのかとか。そこから先を考えていくと、だんだんおかしくなっていって、「ありがとう」を言った方が店員さんも仕事した甲斐があるのでは、じゃあ、その「ありがとう」と「どういたしまして」はどれぐらい続けたらいいのかとか、突き詰めていくと、どこからがコミュニケーションで、どこからが異常なのかわからなくなってくる。僕はそういったことに興味があるし面白いと思う。今回の再々演では、そういうことを執拗にやっている人たちを描こうかなと思ってます。
話が少しそれますが、先日まで、四国学院大学で学生と一緒に作品を創っていたんです。自身に起きたことを、自分で書いて出演するという短編のオムニバスです。この大学の演劇コースは、プロフェッショナルを育てるというより、芸術や文化にプラスして、演劇のコミュニケーション教育を重視しています。授業で、今まで生きてきたなかでいちばんショッキングなこと、印象に残っていることを喋らせました。みんな、それぞれ面白い経験は持っているんですけど、共有できない話し方をする人がいるんですよね。聞き手が話の流れに追いつけなかったり、情報を整理する前に、話し手がすごい興奮して喋ってしまい温度差が生じて伝わらない、みたいな。それで、携帯電話に自分のスピーチを録音して聞き直してもう一回話させると、だんだん話し方が変わってきて、より他人に共有しやすいものになっていったんです。その技術って絶対にあったほうがいいと思うんですよ。なかには、ほとんど喋らないとか、コミュニケーションをとれない子もいるんですけど、グループで創作をさせると喋らないといけないし、自分に欲求があっても周りの人も同じだけ欲求を持っていて、そのなかでどうやって自分を変えたり変えなかったりして役割を果たしていくのかを考えなくちゃいけない。それこそがコミュニケーションだし、生きていることに相当近いと思うし、そういう経験をさせることが大事だと僕は思っています。
僕自身がもともと引きこもりで、自分の身に起きたことを演劇を通じて共有したり共有できなかったりを繰り返して、なんとか他人とコミュニケーションを取れるようになってきたという経験があるので、少なからず、コミュニケーションと演劇は関係があると思うし、小学校とか中学校とかで分数の計算を教えるよりは演劇をやっていたほうがいいんじゃないかなと思っているんです。学校って勉強していればクリアしていけるじゃないですか、他人と摩擦を起こさなくてもやっていける。でも、社会に出ると急に<コミュニケーションをとれる人/とれない人>って判断されるじゃないですか。だからそういうことは、小中高のうちからやっておいた方がいいと思います。
それで結構考えるところがあって、この作品に出てくる劇団には他人との関わり合いとか、もっと細かいディテールのロールプレイングみたいなことをやらせようと思っています。あと、劇団という閉じられたコミュニティは、一般社会ではありえないことがまかり通っていたりするので、そういう閉じられているコミュニティのおかしさも書きたいと思っています。実体験ですね(笑)。
Q. 荒川良々さんが出演されるきっかけは?
最初、『て』を観に来てくれて、そのあと、去年の青山円形劇場でのプロデュース公演(『その族の名は「家族」』)に出演してもらったのがきっかけで、今回、本公演に出ていただくのは初めてです。本当に真面目で面白いし、馬鹿みたいな役もするんですけど、すごい技術のある人なんです。この人の子供役って、すごくスっと入ってくると思うんですけど、奥行きはかなりあるんで、異常に小学生っぽく、子ども的な淋しさも出せれば、大人的な世知辛い感じも出せる。年齢の分からなさが、この役にあっている感じがするんですよね。
Q. タイトルは、ポンポンを振ってアナタの自意識を応援したいってことですか。
冷やかしたいってことだと思います。僕が引きこもっていたときが抜群にそうだったんですけど、他人の発言が自分に向かったものでなくても、その発言のせいで自分はこうなったみたいなことが、ひとりでに増幅されていく。誰かがよそ見て笑ったことが、自分を笑ったんじゃないかと思ってしまう。僕はそういう過剰な自意識に共感します。他人についてどれぐらい考えたらいいのかわからなくて、他人と自分を相対的に見られなくなるときや、周りがどう見てるかということばかり考えちゃう時が、人ってあると思うんです。なかには、ずっとそういう状態みたいな人もいて、そういうのが僕は面白いんです。
ただ、僕はどうしても、登場人物を不幸に終わらせたくなる。ひどい目にあわせたくなるんですよね。
僕自身も舞台上でひどい目にあいたいんですけど(笑)。僕は、ホントは、台本を書きたくなくて俳優をやりたいんです。ただ、俳優やりたいけど、誰かが書いた台本を読む力がないというか読んでも全然面白くなくて、だから、仕方なく台本を書いているんです。それで、自分は俳優として何をしたいかというと、ちょっと変かもしれないですけど、オバサンの格好をして酷い目にあいたいんです(笑)。だから、コミュニケーションについて話すことで日常も良くなりました、っていう物語で終わらせることは・・・許せないんですよね(笑)。
Q. 岩井さんがお芝居をつくる動機は、やっぱり身近な人から?
自分の身に起きたことや実際の人を取材したことが多いですね。興味があって取材に行くと発見があるし、僕の身体を一度通るので、体感として書ける。一度、フィクション書いてつまんないと言われたので(笑)、これは身の回りのことを書いたほうがいいのではと思って。話の出どころが自分である方が、腑に落ちるんですよね。「私小説」はあっても、「私戯曲」のようなものは少ないらしいので、普通にやって珍しいのならその方がいいのかなと思っています。お芝居の成り立ちって、飲み屋で愚痴っているみたいなことだと思うんですよね(笑)。それがしっかり伝わって面白ければ演劇として成立して、それがもう少しかしこまって落語になって・・・と僕は感じていて。落語って、話自体はさほどでもないのに、観るとすっごい面白いものっていっぱいあるじゃないですか。その落語で、もう一人演者がいたほうが、その状況伝わるんだよなってことで、人数が増えて芝居になったんだと思っています。
Q. 向田邦子賞受賞のスピーチで、自分の師匠は岩松了さんと平田オリザさんと仰ってましたが。
もともと、映画を撮りたいと思って二十歳のときに引きこもりから脱け出して、大検取って進学したんです。でも、入学した演劇科は“ド新劇”で、かなり演劇に失望したまま卒業してしまいまして・・・。
その頃、岩松了さんの『月光のつつしみ』の再演(2002年)の現場で、知人から(稽古場の)代役を探しているんだけどと連絡があって、桃井かおりと竹中直人が出るって興奮して飛びつきました(笑)。それまで僕は近代戯曲文体の台本しか見たことがなくて、そのセリフを、どう舞台上できれいに立ち、きれいに喋るかしか教わってなかったので、岩松さんの台本は僕にとっては凄く新鮮だった。岩松さんの戯曲には、例えば、自分が傷ついていることを伝えたいがために個人のことなのに「これはもう戦争だよ」って言葉を使っちゃったりする、といったことが書かれていて、それが僕にはもう可笑しくて面白くてしょうがなくて。喋り言葉で日常を再確認したり、見過ごしているものの大切さや、優しさ故に怒ってしまうとか、そういう日常を文学性まで持っていくのが岩松戯曲だと思っています。あと、「セリフが浮かばないときは、<沈黙>って書いちゃえばいいよ」って仰っていたことも頼りになっていて。それを頼みにして書き始めたのが、『ヒッキー・カンクーントルネード』なんです。自分にとって台本を書くきっかけは、岩松さんでした。
同じころ、平田オリザさんの『東京ノート』を観たんです。舞台上に3本のベンチがあって、客入れ中から、ベンチで本を読んでいる人が居るんです。そのあと、別の人がやってきて、本を読んでいる人のベンチから、いちばん遠いところに座るんです。で、しばらくすると本を読んでいる人が座り直すんですよ。それを見て、僕、泣いちゃって(笑)。それまでひとりの空間だったところに他者が来ることで、その空間を変えて、それが意識の有無に関わらず身体にまで及ぶということを、演劇で、生で描いていることに驚愕してしまって。舞台を観たあと、満員電車で座っている人同士の肩の触れ方とかの見え方が変ってきちゃって。ちょっと押されたら離れて、しばらく隙間が開いてるんだけど、もう押してこないなと思ったら、だんだん元の距離に戻っていって・・・みたいなことも見えてきて。それは、自分と自分以外の世界とのあり方をずっと調整し続けて、知ろうとし続けてるんだろうと思うと、僕はもう泣けちゃって仕方なかったんです。そういったことで、喋り言葉で書こうと方向性が決まりました。
引きこもっていたのに演劇をやっていて、180度正反対って言われるんですけど、僕は他人の目や社会的な評価を気にするあまり家から出られなかったので、それを一つずつ潰して現実的に自分の経験にしていきました。だから、自分が知りたいことや体感してみたいことを書いて続けています。
『ポンポン』は非常にハイバイらしい作品。トラウマ遊びとか、笑えるトラウマというのを掲げているので、そういうものとしては直球のものですので、是非これを機に、面白いかどうか判断しにいっぱいの人に来ていただきたいですね。全員が面白いというかなんてわからないし、好きかどうか判断してもらうためにやっていると思っていますので。