■ <北村想の座標/現在>への流れ |
岩崎: |
北村想さんには、アイホールは開館当初よりお世話になっております。1988年のこけら落とし公演『寿歌』に始まり、開館十周年(1998年)には、「北村想の宇宙」というタイトルで、関西を拠点とする5つのカンパニーが、北村想作品の連続上演を行いました。また、アイホールは人材育成にも力を入れておりますが、想さんはその中心的存在として、戯曲講座である「伊丹想流私塾」の塾長を長年務めていただいております。
このような経緯から、アイホールが2009年より取り組んできた「現代演劇レトロスペクティヴ」においても、想さんの戯曲を取り上げたいという声が、当初から多く寄せられていました。このプロジェクトが軌道に乗った何年目かには北村想特集を組もうと、あえて温存しておりました構想が、このたび実現いたしました。
「現代レトロスペクティヴ」を、いったん「現在進行形の北村想」として位置づけるにあたり、<北村想の座標/現在>と題して、2000年以降の戯曲から2作品を上演することになりました。
『この恋や 思いきるべき さくらんぼ』は、2004年に清流劇場に書き下ろされ、田中孝弥さんの演出で初演されました。今回は作者ご本人が演出を担当し、満を持しての再演となります。
『オダサク、わが友』は、昨年、メイシアター(大阪府吹田市)とDIVE(NPO法人大阪現代舞台芸術協会)の合同プロデュースで製作されました。今回はAI・HALLとDIVEの共同製作として上演し、初演に引き続き、深津篤史さんに演出をお願いしております。 |
■ 『この恋やおもいきるべきさくらんぼ』~夏Ver.~について |
北村: |
作品のタイトル『この恋や~』は、映画監督の川島雄三さんがお作りになった俳句です。私は川島監督の熱烈なファンでして、この物語には、映画『貸間あり』(1959年)から取った「貸間(かしま)」という名の映画監督が登場します。また、川島監督のアシスタントであった作家の藤本義一さんをモデルにした、新進のシナリオライター「下手村(へたむら)」とともに旅館の離屋(はなれ)で脚本を執筆しているというお話です。このお二人のモデル以外は、完全な虚構です。
私は今年60歳を迎えましたが、これといった将来設計もなく、この仕事を続けられれば良い、と思っているだけなのですが、ただ、最後にやりたい仕事として、自分が若いころ、最初に文学的な影響を受けた太宰治をはじめとした作家たちの作品を戯曲化・舞台化したいと考えておりまして、今回の作品は、いわば、その序章のようなものであります。
夏バージョンへの変更には、2つ理由があります。「縁側に夕立」というシーンを作りたかったのと、もうひとつは、ワンピースを着てパラソルを持った船戸香里が見たかったからです(笑)。それにともなって、戯曲も大幅に書き直しています。
今回、船戸さん演じる「女優」の姉は、貸間監督と太宰治の双方と恋人関係にありました。彼女が亡くなった後、妹は女優となって、次回作に出演させてくれるよう監督の元に頼みに来ます。もちろん貸間は断ります。この監督と新進女優の対峙を通して、女性の強さというものを、女性の「したたか」さというかたちではなく、「明るさ」として描きたかった。だからこその「夏」であり、「パラソル」なんです。
60年生きてきて、女性の強さは、まさに「骨身に沁みて」経験してまいりましたから(笑)、それをしたたかさではなく明るく表現することで、作家として一種の反抗を試みたというか、(男として)負けてはいけないというところを描きました(笑)。
キャストも一部リニューアルし、船戸香里さん、螳螂襲さんに加え、新しくミジンコターボの片岡百萬両さんをお迎えしました。
東京には関西の何十倍もの俳優がいらっしゃって、全てそうだというわけではないですが、「東京演劇」とでもいうべき一つのスタイルがあるんですね。それに較べて、関西にはそんなスタイルはないけれども、「達者な」女優さんが多いなという印象があります。なかでも、私から見て天才女優が関西には二人いるのですが、そのうちのひとりが船戸香里ですね。
今はまだ読み合わせの段階ですが、僕はいつもこの期間に、役者の可能性に合わせてホンを書き直し、どんどんレベルアップさせていきます。もちろん初見ではうまくいきません。しかし、一度「ここは、こういう風に」と伝えれば、もう二回目を言う必要はないんです。そのあたりの対応力はさすがだな、と思います。 |
■ 『オダサク、わが友』について |
北村: |
執筆を依頼された時に、メイシアターのこれまでの上演記録をザッと調べましたら、不思議なことに数ある作家の作品を原作にして上演している中で、関西のオダサクの作品がひとつもなく、これは書いておかなければいけないと思いました。
オダサク(織田作之助)は、坂口安吾さん、太宰治さんとともに「無頼派」と呼ばれており、また川島雄三監督とは深い繋がりのある親友でした。有名な逸話ですが、結核を患っていたオダサクが危篤という知らせを受けて、薔薇の花束を抱えて川島監督は駆けつけた。しかし、残念なことに臨終には間に合わなかった。川島監督は病室には赴かず、病院の裏口で「オダサクが死んだ、オダサクが死んだ…」と言いながら、薔薇の花びらをちぎっては食べていた。そういう、絆と深い親交が、この二人にはあったんですね。
今回の『オダサク、わが友』と『さくらんぼ』に関しては、川島雄三さんと藤本義一さんをモデルにした人物が登場するところが共通しています。 |
深津: |
初演のメイシアターの中ホールは大きかったので、もう少しコンパクトな今回の舞台は、面白くなりそうだと思っています。
僕の演出は舞台美術と切り離せませんから、(舞台美術担当の)池田ともゆきさんが「同じセットでいく」と言ったら前回と近い感じになりますし、違うセットを使うのであれば、演出はガラッと変わります。美術先行なので、芝居がどうなるかは、美術予算と池田さんの気分次第というところがありますね。でも、どんな美術案がきても楽しんでやろうと思っています。
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■ Q&A |
Q. 深津さんは、北村さんの作品を演出する上で、どのような点を重視していますか。 |
深津: |
想さんの作品に限らず、基本的に「ヘンなものを足さない」というスタンスを大事にしています。「僕が演出したらこうなるよ」というのを入れることは極力避けたい。これは『オダサク、わが友』では特に気をつけました。科白と科白の関係を純粋に楽しんで欲しいので、余計なものはいらないんです。
例えば、この作品には実在の人物がたくさん出てきますが、変にたくさん勉強して肉付けしちゃうと、勉強した人の視点が入ってしまう。つまり、想さんが見た太宰や安吾ではなく、僕や役者から見た太宰、安吾が混じってしまうのです。ですから、あまり勉強はせず、「この台本に書かれている太宰」を演じてもらうようにしています。
何かを加えるとすれば、「今なぜこの場所で、この時に、DIVEで、北村想さんで、深津で、このメンバーでやる意味があるのか」を考えたときに、必要なものだけですね。 |
Q. 両作品に登場する川島雄三監督の魅力は? |
北村: |
川島監督は肢体不自由で、それでも映画を撮り続け、早世されてしまいましたが、自分にとって監督の生き方や映画に対する考え方がとても魅力的なんですね。私がいちばん好きなところは、川島監督のシナリオに対するこだわりです。彼は「シナリオとは切ったら血が流れるものです」という名言を残しています。映画とは映像、あるいは役者を撮るものだという方もいますが、川島監督はシナリオ、脚本を大事にしていました。
私は劇作家として「ことば」を大切にしますから、芝居というのは「せりふ」から始まると考えています。「せりふ」には「台詞(台本に書かれた俳優の言葉)」と「科白(舞台における俳優のしぐさと言葉)」がありますが、「台詞」が「科白」に変わって行く、それもまた「せりふ」なのです。ですから役者にも、先に気持ちや心理を作ってから台詞を言う、ということは絶対させません。そういう気持ちになれるまで「せりふ」を読め、と言うんです。「台詞」に書かれた気持ちが腑に落ちるまで読めたら、それがいちばん正しい「科白」の出し方ですから。シナリオを大切にしていた川島監督も、おそらく、そういう部分があったのではないでしょうか。
また、川島さんは、当時にしては信じられないほど斬新なことをなさっています。マンションの一室だけで展開する『しとやかな獣』(1962年)や、『雁の寺』(1962年)ではコンテやカメラ位置を全く決めず、全部カメラマンの好きなように撮らせたりもしている。あるいは、寺山修司さんが『田園に死す』(1974年)のラストシーンでなさった、東北の民家がバサバサッと倒れていくと新宿の街がいきなり現れるという演出も、もともと川島さんが『幕末太陽伝』(1957年)のラストでやろうとして、主演のフランキー堺さんの猛反対にあって実現しなかったアイディアです。また、『洲崎パラダイス 赤信号』(1956年)では、戦後、隆盛を誇った遊郭である「洲崎パラダイス」に、カメラは一歩も踏み入れずに、遊郭入口の手前にある小さな飲み屋だけで物語が終始する。そういう「やり口」が、芝居をやっている者にとっては、非常に魅力的なんですよね。
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