時代を画した名作を現代に。
 第三回目となる「現代演劇レトロスペクティヴ」は、三十代の気鋭の劇団がそれぞれの嗅覚でもってチョイスした傑作揃い。
 アイホールディレクター・岩崎正裕の司会のもと、「下鴨車窓」田辺剛、「ニットキャップシアター」ごまのはえ、 「A級MissingLink」土橋淳志、お三方に作品についてお話いただきました。


岩崎:現代演劇レトロスペクティヴは今回で3回目になります。今年は脂の乗ってきている30代の演出家に焦点を当て、皆さんにそれぞれ触手の動く3つの作品を選んでいただきました。時代的には70年~80年代初頭の中に収まっているわけですが、今回はどういったところからそれぞれ作品を選んだのか、お聞きします。
田辺:太田さんが晩年に教鞭を取ってらっしゃった京都造形芸術大学のすぐ近くに、私がディレクターを務めるアトリエ劇研がありまして、そこにも太田さんはよくいらしてたんですが、いつかお話をしたいと思いながら、なかなか御挨拶する機会もないままに亡くなられてしまいました。また、私が今年36歳になるんですけども、太田さんが37歳の時に『小町風伝』を上演されたということも聞きまして、今回のお話をいただいた時にフッと思い浮かんだのが太田さんでした。今回この企画で、生きている間に会えなかった分、作品を通じて出会えたらと思って選びました。
岩崎:ごまさんと寺山さんの組み合わせが僕は異色だと思うのですが、ご本人はそうでもないという感じですか?
ごま:異色ですかね…。まあ、少し原作が入り組んでいますからね。実はこれは寺山修司さんがガルシア・マルケスの小説『百年の孤独』に影響を受けて、天井桟敷で上演して、更にそれを映画『さらば箱舟』にしているんですね。私たちは舞台版の戯曲を土台にして、映画版の要素と、マルケスの原作を再構成して上演台本を作成しています。また、私は生まれ故郷の大阪・枚方を神話化するということを創作の柱にして、何本か作品を作っています。それは実際の枚方という街とは違う“ヒラカタ”を虚構の中に創り上げたいという気持ちから来ているんですが、同じ気質を感じる作家がG・マルケスなんです。私は彼の小説『百年の孤独』が前から好きで、それを寺山さんも舞台でやられているということを知って、台本を読んでこれは是非やらせてもらいたいと思ったし、レトロスペクティヴに参加して、これまでの自分が作った作品やこれからの創作活動の系譜の中にこの作品が繋がっていくようにしていきたいと思い選びました。
 それと、実は、私の親の本棚に寺山修司の本がたくさんあって、中学、高校生の頃にそれを読んでいました。その時は勉強のためとかではなく、純粋に面白いなーと思って楽しんでいました。大学に入って演劇を始めてから寺山さんの戯曲は読みだしましたが、それ以前に娯楽として読んでいたので馴染みがあったのですね。
岩崎:なるほど。では、土橋さんですが、竹内銃一郎さんは、今、近畿大学で教鞭をとってらっしゃいますし、土橋さんも近大ご出身ということで、そのあたりで出会いがあったのでしょうか?
土橋:そうですね。僕が近畿大学商経学部の3回生だった頃、文芸学部の舞台芸術専攻に竹内さんが教授として着任されて、その授業に勝手に潜り込んでいたんです。欠席者ばかりで僕一人だけで受講する日もあったり、単位も貰えないのにレポートを提出したりしていました。劇団を旗揚げしてからも、通し稽古をすると言ったら「じゃあ、見せてよ」と言われて、観に来られて、とても緊張したのを覚えています。
 何故この作品を選んだのかですが、何年か前に、自分たちの作っている作品の言葉が、めちゃくちゃ“お利口さん”だなと気付いたんですね。言葉が丁寧すぎるというか、小市民的というか、それがイヤになって、テキストにもっと多様な言葉がほしいなと思っていろいろ試行錯誤をしていたんです。竹内さんの戯曲には、無茶苦茶な言葉や、やりとりがあるんですけど、御自身は非常に知的な方なので、そのバランスがすごいなと思ったんですね。あれだけ頭のいい人がこれが面白いんだよと確信を持ってやってはるのがすごく好きで。自分たちに今足りないものがここにあるかもしれないと思って選びました。

■それぞれの切り口

岩崎:それぞれ皆さんが産まれた頃に上演された作品なので、当然、初演はご覧になってないわけですが、だからこその新しい発見、演出的な切り口や視点、こうするんだというのを決意表明していただければと思います。
田辺:今回の上演台本には「はじめに」という前文があるんです。読んでいくと「この台詞は書いてあるけど言わない」って書いてあるんですよ。それはなぜかということまで書いてあって、どうやら稽古では言わせてたみたいなんです、沈黙にするつもりではなくて。 読んでいくうちに、テキスト自体はいろんな試行錯誤の結果みたいなものに思えて、それを素朴にそのまま取り組んでいけば、テキストにあるような「沈黙劇」になっていくのだろうなと思います。それはそれで挑み甲斐はあるのですが、ただ、ちょっと面白味に欠けるなとも思って。 で、舞台に立った出演者が自分の言葉として、この書いてあるけど言わない台詞を発するのは変だと思ったんです。これらは、太田さんの言葉を借りると「言われることのなかった、内的な言葉」であって、例えば今日もここに来る電車の中で記者さんにどんなふうにして説明しようかとか、頭の中で作文は出来たとしても、実際にそれを言うことはないし、いま喋っていることも、思っていることと一対一の関係でぴったりと合っているわけでもない。すなわち、ここに書かれていることは内側の言葉なんだと。
 膨大な量の「言わない台詞」があって、この「秘められた声」を届けることは出来ないかと思った時に、ある仕掛けがあれば可能かもしれないと思ったんですね。それが小さな携帯型音楽プレイヤーなんです。それに声を録音して、お客様に配って、観客は聞きたい時に聞けばいいし、聞きたくなければ聞かなければ良い。そうすることで目の前の行われていることは沈黙のやり取りなんだけど、そこの裏側、かつて響いたかもしれない声を聞く、そうした時に内側の声とか実際の声とか言葉とかを新しい視点で観ることができるようなきっかけになりはしないかと考えています。
 ただ、それをいつもながらの客席でやるには、結構、忙しいなと思いました。初めは劇場内で立って観てもらう形を考えていたんですが、別に劇場の中でやることはないかと思いだして、ならば、どこまで広げられるかと考えた時に、アイホールの縦も横も全館使って、美術展の展示を見るようなやり方を思いつきました。これは去年の秋に、僕が演出助手を担当した、マレビトの会『HIROSHIMA-HAPCHEON』(於:京都芸術センター)という作品が展覧式で上演されたのをヒントにしました。それを足掛かりに、アイホールに8か所のスポットを見つけられたので、面白そうだなと思っています。
岩崎:演出家が仕掛けたものを全部観られないというのが面白いですね。
田辺:同時に3~4か所でやるので、確認できないんですよね。この前、アイホールで初めてデモンストレーションやったんですけど、走り回りますね。間に合わないから(笑)
岩崎:俳優は、発語/発話しないということに関して、戸惑いは取れてきていますか?
田辺:はじめからそういうオファーをしていたし、発話せずに何をするんだというところはあって、今でも試行錯誤しています。あるシーンでは、隣の家から聞こえてくる声を聞いているという様子なんですけど、座っているしかないよね、と最終的にはなりそうなんですけど、さすがにそれだけでいいということにはならないので、何をしてそこに居ればいいのかを考えますね。
岩崎:俳優の作業としても大きいチャレンジだと思いますが。
田辺:台詞は全部入れてもらっているんですけど、入れても言わないので、大変だと思います。なかなか台詞が定着しない苦労というのはありますね。
岩崎:さて、ごまのはえさんですが、今回、テキストを自ら構成という形でお作りになられてますが。
ごま:私は何事も批判的にならないと頭が働かないので、批判的に舞台版の戯曲を読んでいたのですが、非常にとりとめがないと思いました。全然、ストーリー性もなくて、辻褄も合ってなくて、社会批判がない。なので、いろいろと無造作なものが転がっているような状態で、そこから何かきれいなものを立ち上げていかなきゃならんのだなぁと。しばらく茫然としたんですけど、その時に気付かされたのは、批判とか風刺とかをする気がないという潔さです。台本の構成を考えていた頃、ちょうどシュールレアリズムの展覧会を観に行きました。シュールレアリズムというのは第一次世界大戦の後に盛り上がって、人間の理性が信じられなくなった時に立ちあがったということを伺って、非常に今の状態と似ているなと思ったら、「やろう」というモチベーションは上がりました。関係ないことをやろうと思ったんですね。震災とかそういうことではなくて、社会批判とかやらずに、人間の理性を揺さぶるような、そんな作品になればいいなと。やっと意味づけが出来て、今のところそこに向けてやっていきたいと思っています。
岩崎:俳優との作業はどうですか? 俳優も批判ないしは批評的に取り組むということですよね。
ごま:まず、大きな方針として俳優に言っていることは、言いたいことが言えないストレスとか、人間関係のストレスとかは今回登場しない。ストレスから演技を作るんではなくて、生まれてきた喜びとか悲しみをそのままだす。戯曲の心理を読みこんでも絶対に行き止まりがくるから、それ以上の深いことはたぶん無いし、心理戦に持ち込まずに肉体で表現しよう。そこがいちばんの特色ですね。
岩崎:京都の町で、そういう言説が演出から吐かれていると思うと面白いね。
ごま:とても単純な考え方ですけどね。
岩崎:「心理戦」の京都と、僕は昔から思っていたけど。
ごま:いやいや、それは昔の話です。いまは元気で、騒がしいのも出てきてます。
岩崎:騒がしいといえば、騒々しい芝居ですよね、『悲惨な戦争』は。
土橋:終始、騒がしいですね。
岩崎: 80年代に関西の学生劇団がこぞって取りあげた作品でしたけど、当時はみんな面白おかしくやっていました。演劇初めて1、2年の人たちがいかに個を発散するかというやり方でしたが、この21世紀の今、土橋さんの切り口は?
土橋:昨年に、この本を選んだ時には奥行きがない騒がしい方法で演出したいと思っていました。例えば、竹内さんの代表作『あの、大鴉さえも』の、ガラスのように平面的で、なおかつ面白おかしく1時間半が過ごせたらと思っていました。ただ、今は悩んでまして。というのも、僕は個人的に仙台の演劇人の方々と関わりがありまして、今年の3月11日の出来事があってから、何度か現地の人と話をしてるうちに、今もしも福島で上演すべきテキストがあるとしたら、その一つが『悲惨な戦争』ではないかと思いはじめたんです。
岩崎:それが3月11日に起きた震災以降のスキーム(枠組み)の中で演劇そのものを捉えなくてはならないということなの?
土橋:本当はそんなこと考えなくて良いのかなって思っていても、『悲惨な戦争』はある家族が見えない敵から攻撃されてバタバタ死んでいくという内容ですので、否が応でも考えざるを得ない。しかも家から出ると攻撃されるという法則があるんです。今回はこの作品を選んでしまった偶然に身をゆだねて、ギリギリまで悩もうと考えています。稽古しているうちに何か見つかるんじゃないかというくらいの気持ちで。
岩崎:今は一人の作業だけど、現場に入ると俳優によって補強されるところも出てくるだろうし、今悩んでいることを捨てることもできるだろうから、極めて現場的な台本のような気もしますね、『悲惨な戦争』というホンは。
土橋:そうですね。ただ、テキストにはある種の普遍性が必要だと思うんですが、演出に関しては、今なぜこれを上演するのかということが大事だと思うので。

■劇の危うさ

岩崎:今回それぞれお三方の作業は、相当危うい、綱渡りだなと実は僕は思っているところがあって、実際に沈黙劇として上演されたものを現代のテクノロジーで生かせるかというのもそうだし、原発の問題というのもそうだし、ごまさんだと何になるのかな? その俳優が役柄とか関係性を構築しなくていいんだという、逆説的に言うと僕らが90年代以降、培ってきた演劇観を捨てなきゃいけないっていうことになるわけでしょ。
ごま:そうですね。もう一つは、俳優に体臭がないんです。
一同:あぁ…(頷く)。
岩崎:ごまさんにだけある感じだもんね。
ごま:…ええ(笑)。
一同:(笑)
ごま:稽古の初めにみんなで大阪の民族博物館に行ったんです。意図としては、いかに僕らが「大日本ユニクロ・ニトリ・コンビニ共和国」の国民かということを、ああいういろんなものを見たら相対化されるんじゃないかと思って。ユニクロとイケアで済んでしまう、オレたちの生活って価値観って何やねんと問い直さないといけない。これほど多様性とか言われておきながら、生活においては同じようなところに寄り集まってる、この「か弱さ」は何やねんと。そんな、か弱い人間が集ろうとしているのが非常に僕は苛々するところなんです。で、そこを打ち破りたいんですよ。
岩崎:どうしたら打ち破れるのかね?
ごま:いや、無理ですね、これは。だから、そこをむしろ“ごまのはえ”的なモノマネをしてやることで気持ち悪がらせる。人間の真似をしてやることで人間に気持悪がられてやろう。
岩崎:それはユニクロを真似することではなくて? 一切、それは排除して? ニトリもイケアも?
ごま:そこは排除してないですね。たぶん、衣装とかニトリ、ユニクロぐらいは出ると思います。で、そこをなんとか、似ているからこそ気持悪いものにはしたい。でも、俳優の身体がもう喜ばないんですね。
岩崎:寺山さんのところに、日本中の家出した少年少女たちが集まって演劇やって、それだけで体が喜んでいた時代があったけど、今はそうではないよね。
ごま:自分のことを普通だと思っている人たちに向けて、何かしら嫌な気持にさせるような、今の枠組みの中で気付かないことを出せたらいいんじゃないかなと思います。
岩崎:今回のプランの危うさをごまさんは語ってくれたわけだけど、田辺さんはどうですか。演出家はプランを一つ設定したら必ず危うさみたいなものを持っていて、それをどう論理構築するかに掛ってくるわけだけど。
田辺:理屈はいっぱい考えて、デモンストレーションもやったんですけど、その危うい部分は蓋を開けてみないとわからないところがあります。音声を配布するというのも、その俳優のパフォーマンスとお客さんが音声を聞くタイミングはバラバラなので、基本的には必ずズレるようになっているし。また、普段お芝居をしている時に決してやっちゃいけないことをどんどん肯定する作品になるんですね。普通は、俳優の台詞や演技は必ずお客さんにちゃんと聞こえなきゃいけないし見せなきゃいけないし、それが出来ないと何か問題があるから修正する。ただ今回の芝居は、見失うこともあれば、聞き逃すことも…
岩崎:ひょっとしたら観客がいないっていうことがあるのかもしれない。
田辺:でも、観客ゼロでもやらなきゃいけないし、逆にお客さんも出演者がいないところに連れて行かれるというか、案内はされたけど誰も居ないみたいなことがあるんですね。そういうタブーとか、いわゆるやっちゃいけないことをちょっと肯定してみるという感じですね。
岩崎:劇の根幹に関わる問題だよね。
田辺:それを体験した時に普段の演劇では見せられない、得られないものがありはしないか。老婆が朝起きてご飯を食べて、ちょっと朝の風景を見るという時に、それくらいの穴がいっぱいないといけないような気がします。
岩崎:ごまさんの話だと、今、生きている人間というのは何だろうか、という根源的な哲学的命題を演劇によって解き明かしてみる、みたいな切り口になると思うんだけど、田辺さんは、ある種、演劇の枠組論みたいなものでもあると思うのね。これは現在の田辺さんの演劇観と合致しているのかというところも問われると思うんだけど。
田辺:これが終わったら普段やっていることに戻ろうと思うんですけど、ただ単純には戻らないだろうなとは思ってるんです。そういう意味でなるべく自分に対してマゾヒスティックにハードル高いことをやってみれたらなと考えてます。実は今回は、『更地』をやるか『小町風伝』をやるかで悩んだんです。『更地』は普通の台詞劇で、男女二人が出てきて、たぶんこうやってこうやるだろうなと想像は出来て、そうすると安心だし、ちゃんとやったことにはなるだろうと思ったんですが、せっかくいただいた機会なので、〈見失うこと、聞き逃すこと、行き違うこと〉が演劇で紡ぐことが出来るのかということをやってみたいなと思いました。
岩崎:演劇が興行である以上、お客さんが一人も来なければ俳優は舞台に立たなくてもいいという約束事がありますから、それを打ち破りますね。
田辺:アイホールで普段俳優が楽屋として使っている場所も舞台になっちゃうし、あと、ホールの中にお客さんを入れないことにする。2階のバルコニーから見下ろすことは出来るけど、場内には入れない。そうすると導線がすごく複雑になるので、楽屋は本当に端っこになっちゃうし、なかなか人は来ないだろうなと思います。
岩崎:迷路ですね。
田辺:はい。だから、人が一人も来ないかもしれないけど、ちょっと頑張ってやってくださいとは言っていますね。
岩崎:なるほど。その辺から言うと、土橋さんは明快な切り口でやるということになりますね。
土橋:でも、最近「ドラマ」から離れられない悲しさみたいなのがあって。
岩崎:「ポストドラマだ」って言っている人たちが、現代を見せるためには演劇の中に「物語」を持ち込むのはもう古い、みたいな議論がずっとあるじゃないですか。
土橋:僕、そういうお芝居、結構好きで…
岩崎:あ、そうなの?(笑)
土橋:観に行ったら面白いんですけど、じゃあ、自分がやるかって言ったら出来ないな、って感じです。じゃあ、なんで「ドラマ」をやるんだろうというのをずっと考えてます。
岩崎:そういう意味では、『悲惨な戦争』は起承転結がしっかりあるでしょ。こういう云い方は竹内さん怒らないと思うんだけど、ある種、「マンガ的」じゃないですか。世界をカルカチャライズ(戯画化)しているわけで、それはたぶん平面的ということに繋がっているのかもね。それと、ものすごくナンセンスにこの作品は書かれているけど、このナンセンスが21世紀のナンセンスになるのか、一つの挑戦になるのではと思います。まあ、俳優によるとは思うけどね。出演者を見ると意外と“体臭”のある人たちのような気もするしね。
土橋:テキストは何回読んでも笑ってしまうシーンが多くて、これは絶対面白くなるとは思うんですけどね。まあ、当時のテレビ番組のところはちょっと練らないといけないとは思うんですけど。
岩崎:稽古場に期待、ってとこですか。
土橋:そうですね。お二方のが出来上がりつつあるので、めちゃくちゃ焦りますね…。
岩崎:順番ですもの。(笑)
田辺:だって二カ月位は離れてますからね。
土橋:でも、(小声で)悩んでる場合じゃないですね…。本当に…。
岩崎:全て今年度中には終わるんでね。終わったところでまたこういう話が出来たらいいですね。
田辺・ごま:あー良いですね。
土橋:それはやりたいですね。まずは下鴨さん、観に行きますんで。
田辺:是非来てください。
ごま:老婆の格好をして観に行きます。
一同:(笑)

於・大阪市内 12月7日